私は自分が運の悪い人間だと思っている。そしてそれを口にだしてきた。よくよく考えてみると、「自分は、弱くて怠惰である」といっているようなものだった。

悪い偶然は一定の確立で起こりえる。コントロールできないようなものであれば「人世万事塞翁が馬」ということで見方を変える、次を考える。ついていないかったことで、かつ自分がコントロールできないものは、反省する必要なないので、まず考えること自体が時間の無駄で意味がない。ネガティブな自分に酔ってよりネガティブな行動をとってしまうだけ。つまり弱い。

コントロールできるものであったのであれば、運が悪い/付いていない事態を想定してバックアッププランを作っておくべきでああったこと、すべてやれることをやり尽さなかった自分の至らなさを反省すべきだと思う。本当に成し遂げたいのであれば、どんなに嫌がられてもみっともなくてもやれることをとことんやり尽す。それでだめなときは潔く違うことを考えられるはず。中途半端にやるから悔いがのこり自分は運が悪かったなどど、愚痴をいうことになるのではないか。

運が悪いことが起きるのではないかという、過剰な恐怖に怯えるというのも私の欠点である。もちろん、世の中何がおきるか分からない。ただ、それらすべての事態を想定することはできないし、あまりにも想定を超えた最悪な事態ばかりを考えて行動すると、逆に意味がない行動になってしまう。妥当な範囲のリスク分析にとどめることができるか、ここも人間の度量と実力が試されるところ。

このような過剰な恐怖にかられるのも、そもそも私は運が悪い、と意味もなく根拠もなく思っているところが背景にある。

「私は運が悪い」、「運」という非常に曖昧なものを「人と比較する」という意味のないことをしているという当たり前のことに今頃気がつく。

病気になった私は運がいいのかもしれない。

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